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  〜 仁 王 談 義 〜  

  伊 集 院 町 妙 円 寺 の 仁 王

妙円寺仁王像


仁王様はお寺の門前に一対(つい)で、しかと天地を踏まえて、見るからに骨格たくましき偉じょうぶである。
筋肉は隆々と盛りあがり、憤怒不適の形相ものすごく、悪魔退散金剛杵(しょ)をふりあげ、かっと見開いた眼光は、まことに仏法守護のはげしい気はくがこもっている。
 
口を開いている方を“ 阿形 ”(あ)、口をへの字に結んで方を “吽形 ” (うん)で、(あ)はいっさいのことばのはじまり(うん)は終わりの音で、この(あ・うん)間にいっさいがあるという意味であり、別説には、門の開閉を表示しているという。

さて、この写真は妙円寺詣りで有名な伊集院町妙円寺の門前の仁王像である。
仁王様は原則として、こわいかおをしておられるはずであるが、よく見るとちっともきびしく見えない。それどころか、こわいかおをすればするほど、ユーモアがあり、たぶんに哀愁がにじみ出てくる。まことにさびしいそうで、ベソをかく一歩前のような、気の弱い仁王様に見えるのである。

東大寺南大門の運慶の大仁王像、興福寺の仁王。三月堂の執金剛力士などに、ぜんぜん見られない人間的なものがある。私は坊津一乗院、志布志大慈寺、市内の不断光院、南州寺などの仁王様を見て回ったが、こんなさびしそうな仁王様ははじめてであり、妙にひかれるのである。

背銘には、はっきりと正徳という文字が判読できる。欧陽詢風のりっぱな文字である。正徳といえば1711〜1716年の五年間で、中御門天皇の時代で、赤穂義士の快挙から 十年後である。
今の世をまともな気持ちでながめるならば、仁王様は怒る元気すらなくなって、あんなさびしそうなかおになるのかもしれない。
(原文のまま)
                   (鹿児島市真砂 高校教諭)  南日本新聞

妙円寺仁王像

  〜 きのう きょう 〜 

  妙 円 寺

正しくは法智山妙円寺という禅宗のお寺である。
伊集院の城主、長門の守忠国の第十一子、石屋真梁禅師が、長州藩主大内義弘の亡息女、法智妙円大姉の霊をとむらうために創建した寺である。
今から六百年前のこと。
    ×     ×     ×
石屋禅師はひとり薩摩藩だけでなく、日本に知られた高僧で教えを受けた者は千人を越え、それぞれ寺を建て、、妙円寺は本山として栄えた。

島津義弘公も参禅し、生前にみずからの菩提寺として定め崇敬していた。
いま徳重神社にご神体として奉置されている島津義弘の木彫の像も、この妙円寺にあったもので、明治二年の仏教弾圧政策がとられ廃寺になるまで「妙円寺参り」はこのお寺に参拝する行事であったわけだ。
    ×     ×     ×
廃寺になったあと、徳重神社が県社として建てられ、行事は神社に引き継がれた。
一方妙円寺はその後再興され、山門の石像も復活した。

昭和十一年五月十一日には、島津忠重の書で「開山石屋真梁禅師碑」が、高さ四bの大自然石で建てられ、碑銘は陸軍大将、町田経宇氏が書いた。今もなお妙円寺の入り口にある。

「妙円寺参りというけど、なぜ徳重神社に行くのだろうか・・?」と疑問を持った小学生がいたが、島津義弘公〜妙円寺〜徳重神社の間にはこのような関係があるのだ。

(原文のまま)
                                                                              
     (伊集院)  S.45.4.2    南日本新聞

 〜ふるさとの石碑(31)妙円寺開基の聖僧 =伊集院町=〜

  石 屋 真 梁 禅 師 の 碑

石屋真梁禅師の碑
県三大行事の一つ“妙円寺詣り”で知られる妙円寺は石屋真梁禅師の開基によるもので、徳重神社から西へ約五十bのところに、いまもレッキとした曹洞宗の古寺“妙円寺”が現存しており、この境内に石屋真梁禅師の碑が建っている。

禅師は島津家の分家・伊集院家四代忠国の十一子(貞和元年)として生まれ、六歳のとき広済寺(現伊集院高校南隣)の寺童になった。
延文五年、上洛して京都は南禅寺で剃髪(十六歳)し、修行ののち全国を行脚して帰国の途についた。

途中、長州の城主大内義弘公のもとに立ち寄り、亡くなった息女の大法要を営み公の嘆きを慰めたが、義弘公は禅師の高徳にいたく感激、使いを伊集院に差し向けて妙円寺を建立寄進したといわれる。

 大内義弘公の息女の法名が「法智妙円大姉」であったところから、山を法智と号し寺を妙円寺と名づけたと伝えられるが、禅師が四十三歳(嘉慶元年)のときである。
禅師は妙円寺に五年いて島津元久の要請で鹿児島に移り福昌寺を開基した。

妙円寺はその後も栄え、慶長九年、島津義弘公は妙円寺を自分の菩提寺と定めた。

明治二年、廃仏令によって寺は焼かれ、その後徳重神社となったが、妙円寺もまた再建されて禅師の高徳をうけついでいる。


 (伊集院)     南日本新聞

 〜 伊集院の史跡たどる 〜

  N P O 「 文 学 散 歩 」 に 35 人

日置市のNPO法人かごしま文化研究所(三嶽公子理事長)は、同市伊集院町で「鹿児島文学散歩」を開いた。鹿児島市などから約三十五人が参加。妙円寺詣りで有名な徳重神社や平野国臣の歌碑など、歴史と文学の史跡を歩きながら秋の散策を楽しんだ。

一行はまず徳重神社と妙円寺を訪問。妙円寺で住職から明治時代の
廃仏棄釈にまつわるエピソードを聞いた後、島津貴久がザビエルと会見したとされる一宇治城跡(城山公園)まで歩いた。

同研究所は二〇〇〇年から月一回のペースで県内各地で文学散歩を開いているが、地元伊集院では初の企画。
三嶽理事長は「武勇で有名な島津貴久、義弘だが、ザビエルとの関係など文学的な視点からみるともっと人間的な魅力も増してくる」と話した。
文学散歩は十五日あった。

(日置)     2005年10月27日(木) 南日本新聞



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