妙円寺詣りは、鹿児島市内から日置市伊集院町にある妙円寺までの約20kmの道のりを、関ヶ原の戦いの苦難に想いを馳せながら、歩いて参拝する伝統行事です。「赤穂義臣伝輪読会」「曽我どんの傘焼き」とあわせて鹿児島三大行事と呼ばれています。
開催日
以前は、関ヶ原の戦いの前夜にあたる旧暦の9月14日に妙円寺詣りは行われていましたが、現在(平成5年以降)は、一般の方々にも多く参加していただけるよう、毎年10月の第4土曜・日曜に開催されています。
参拝場所
妙円寺詣りは、徳重神社(旧妙円寺跡)へ参拝することが一般的に定着しておりますが、最近では歴史的・文化的な背景に詳しい方々を中心に、義弘公の菩提寺である妙円寺へ参拝される方も増えています。
妙円寺詣り当日は徳重神社だけではなく、ぜひ当寺へもお立ち寄りいただき、義弘公の位牌、また関ヶ原の戦いで義弘公の身代わりとなって亡くなった島津豊久公の位牌に手を合わせていただければと思います。
妙円寺詣りの由来
豊臣秀吉公の死後、徳川家康公が率いる東軍と、石田三成公が率いる西軍が日本各地で戦いを繰り広げました。大阪に滞在していた島津義弘公ら島津隊は、東軍に加わろうとしましたが断られ、激戦となる関ヶ原の戦いにおいては、西軍に属していたものの、石田三成公との確執が深くなり、戦意を失い傍観していました。
次第に東軍が優勢となり、島津隊は戦場に孤立し、敵に囲まれました。
島津隊は、絶体絶命の状況で撤退を決意しますが、後ろに引かず正面から敵中突破で戦場離脱し、多くの犠牲を出しつつも防戦に徹しながら退陣に成功しました。
その後、義弘公の兄である島津義久公が、徳川家康公との2年にも渡る巧みな講和交渉を行ったことで、薩摩藩は処分を免れることができました。
この苦労を偲び、薩摩藩城下の郷中教育を受けていた青年たちは、鹿児島・伊集院間往復40kmを、夜を徹して義弘公の菩提寺である妙円寺に参拝する事で、心身の鍛錬をしました。
これが、妙円寺詣りの始まりとされています。