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(薩摩藩編集の「三国名勝図會」及び当寺に残る「開山石屋禅師と妙圓寺」を参考に、ご紹介いたします。)


開山石屋禅師と妙圓寺 
 「 開山石屋禅師と妙圓寺 」

 昭和十二年三月一日

 発行著者  澤田延音

 発行者  石屋禅師願影会

丹波永澤寺の通幻寂霊禅師のもとでの修行を終え、薩摩への帰路を急ぐ石屋眞梁和尚はその途中、長門での宿を探し歩き回ったが、なかなか見つからない。
そこで石屋和尚は「このあたりに宿泊できるような御堂はないだろうか?」と一人の里人に訪ねてみた。

すると里人の言うことには「あるにはありますが、妖怪が出ると噂がたっており里人は決して近づきません」と言う。
和尚は「それは面白い。それならそこへ泊まってみるか」と言い場所を教えてもらい、その御堂に泊まることにした。

夜半になるとたちまち辺りの雰囲気が怪しくなり、あの里人が言ったように一人の女の幽霊が出てきた。
その女の幽霊を二匹の鬼が追いまくり責め立てるのを見て、和尚は見るに耐えなくなった。

次の日、里人が「和尚様。昨夜は何事もなかったでしょうか?」と聞いたので。
夕べ見たことをありのまま聞かせると、里人は言いにくそうに話はじめた。

「実はこの地の国主、大内義弘公に法智妙円(戒名)という子女がおられました。お亡くなりになられましたが、供養が足らず成仏できずに、いまだ幽界をさまよっているとの噂であります」と言う。

そこで石屋和尚は大内義弘の居城を訪ね昨夜の出来事を説明した。
最初は怪しみ「ちゃんと供養はしておるのだが?」と疑っていた義弘であったが、大事な娘のことである。
確認の為に和尚と共に御堂に行ってみた。

すると、やはり昨夜と同じ頃に女の幽霊が出てきた。
大内義弘が「確かに自分の息女である。なんとか成仏させて欲しい」と石屋和尚に嘆願するので、その場で大法要をし、成仏させてみせた。

妙円禅寺楼門
妙円禅寺楼門

開山石屋眞梁禅師五百五十回
大遠忌記念に造立

石屋和尚の徳にすっかり驚嘆した大内義弘は、この地に七堂伽藍を建て娘の菩提を弔ってもらえないだろうか?と嘆願しますが、和尚は、薩摩での曹洞禅宗の布教を急いでいた事もあったのであろう。和尚は固く断った。

そこで、何にしても和尚の薩摩までの帰路を心配した義弘は、家来の菊池一族の60人余りを和尚の護衛に差し向けた。
あの日以来、石屋禅師のことが頭から離れない大内義弘は、長門での妙円寺建立を諦め、これまた生粋の禅信仰者であった。
伊集院の島津元久に頼み込み、徳重の地に妙円寺を建てることができた

護衛として長門より石屋和尚にお供した菊池一族はその後、法智山妙円寺の東側に妙円寺を守る為に住み、東(ヒガシ)姓と名乗った。
現在でも日置市伊集院町に多い姓である。

その後妙円寺は歴代島津当主の庇護を受け、更に栄えた。石屋禅師は妙円寺住職を務めた後、島津家歴代菩提寺の福昌寺の開山となった。
南林寺、慈眼寺、などの大寺も建立された。また山口県にある、長門守護代鷲頭弘忠由緒の名刹
大寧寺も、この石屋眞梁禅師開山の妙円寺〜福昌寺の流れを組む石屋派の寺である。

薩摩國伊集院町妙円寺本堂御内陣
薩摩國伊集院町妙円寺本堂御内陣

その後二百年後に、石屋禅師の威徳に感銘した島津家第十七代当主島津義弘公が法智山妙円寺を、自らの菩提寺と定めたのである。

そして寺領は妙円寺最盛の五百石に加増された。その後いく度かの火災などで一時、380石にまでになったこともあるが、
明治の廃仏まで曹洞宗石屋派草創としての威厳を保った。



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